ウィルソンの与太話
「チャン本」の第五章で取り上げている「国際委員会」の人物は、ラーベ、ウィルソン、ヴォートリンの三人ですが、ウィルソンの部分が余りにハチャメチャなので驚いています。アメリカ人がウソをつき、シナ人が増幅すると、こんな荒唐無稽でとんでもない文章も作るのかと。
所蔵しているEyewitnesses to Massacreがウィルソン文書の全てをカバーしているわけではなさそうなので、なお関連文書との照合は必要ながら、常識的に首を傾げざるを得ない。
まず、p.127に死体を塹壕の埋め草にする話が出てきます。
p.127 “But Wilson heard heard that many Chinese people were executed not because they posed any threat to the Japanese army nut because their bodies served a practical purpose. After the fall of Nanking, the big trenches that the Chinese had built for tank traps were filled to the brim by the Japanese with bodies of dead and wounded soldiers. When the Japanese failed to find enough bodies of dead soldiers so tanks could pass over them, they shot nearby residents and threw them in the trenches as well. The witness who told Wilson the story borrowed a camera so that he could take pictures to confirm his statements.”
「しかしウィルソンは、多くの中国人が、日本軍に何らかの脅威を与えたからではなく、その遺体を実用的な目的に使用するために処刑されたのだと聞いた。 南京陥落後、中国人が戦車の通行を妨害するために掘った大きな塹壕が一杯になるまで死体や負傷兵の身体で埋められた。 その上を戦車が通過できるだけの死体を日本人が確保できない場合は、彼らは近くにいる住人を射殺し、そこに投げ入れたというのである。 この話をウィルソンに語った目撃者は、彼の証言を確認する写真を撮るためにカメラを借りた。」
【コメント】
当時の戦車の重量がどれほどのものかは知りませんが、およそキャタピラーで動く重機を人体で支えるなんてできま
冬季で遺体が凍ることを考慮しても、このキャタピラーの?き取り作用に耐えられるはずがない。
しかも、日中に陽が当たるから遺体は腐ります。
通常、人の遺体は三日も経てば腹はガスでパンパンに膨れます。
一週間ならグズグズになってしまう。
戦車と共に移動していた日本兵が、架橋工事にどれぐらいの地耐力 soil bearing capacityがないと移動できないか、分からないはずがない。
破壊された建物がたくさんあったのだから、コンクリートの破片や砂利で埋めるのが穏当というものでしょう。
次に、同じp.127に大規模な強姦事件のことが出てきます。
p.127
One of the worst scenes Wilson saw in Nanking - a scene he would remember for the
rest of his life - was a massive gang rape of teenage girls in the street. A group of young
women between the ages of fifteen and eighteen were lined up by the Japanese and raped in the dirt, one after another, by an entire regiment. Some hemorrhaged and died, while others killed themselves shortly afterwards.
「南京でウィルソンが見た最悪の光景のひとつは、街路での10代の少女たちに対する大掛かりな輪姦だった。ウィルソンは一生涯、その光景を忘れることができなかった。15歳から18歳までの若い女性の集団が日本人によって一列に並ばされ、土の上で次から次へと、一個連隊の兵士たち全員に強姦されていった。あるものは出血のために死に、他のものはその直後に自殺した。」
【コメント】
そもそも、いつ、どこで、という基本的なことを記していないので、検証のしようもないのですが、そんなに大規模な強姦事件をヴォートリンが見逃して日記に記していないのもおかしい。
とにかく、何百人かの日本兵が、真昼間に尻を出して、悲鳴を上げる女たちを相手にモゴモゴとやっていたという話なのですが、このことが「南京安全区トウ案Documents of the Nanking Safety Zone」に書かれていなければ、ウソ八百の与太話です。
いずれ、「南京安全区トウ案」は精査するつもりなので、その段階で、この話に再度触れます。
脚注を見ると、この話はチャンがウィルソンの女房と電話で話をして聞いたことが情報ソースになっているので、伝聞のそのまた伝聞であって証拠能力がありません。恐ろしいのは、こんないい加減な話でさえ「チャン本」によって、あたかも史書のように伝えられてしまうことです。「チャン本」を日本人のイメージダウンを狙ったプロパガンダ本として見るなら、こういう記述もありでしょうけど、史書として見るに値するはずがない。このまま何十年も「チャン本」を放置していいはずはなく、今この時に叩けるだけ叩かないといけない、と感じました。
次の、同じp.127の下の方に出てくる「首をグラグラさせている女」の話はケッサクです。
p.127
“He told his wife that he would never forget the woman whose head was nearly cut off,
teetering from a point on her neck. “
「彼は切り落とされかかった首が頚部でぐらついていた女性を決して忘れることはないと妻に語った。」
【コメント】
脚注を見ると、この話も、チャンがウィルソンの女房と電話で話をして聞いたことが情報ソースになっていますが、荒唐無稽そのもの、ではないでしょうか。
ゾンビじゃあるまいし、首を切りつけられて生きていられる人間はいません。人の頚部には左右ともに太い動脈と静脈が一本づつ浅い場所を通っていて、ここを切られたら血がブワーと出て失血死します。脳に酸素が送られないので、すぐに意識が飛びます。切腹を考えれば、これはすぐに分かる。介錯人が居ればいいけど、いない場合は腹を刺したあとに首に刃を当てて引く。これで確実に死ねます。
余りにおかしいと思ったのか、「チャン本」は次の文章をp.127の末尾に加えて、恥の上塗りをやっている。
pp.127-128
a hospital volunteer wrote pf this woman in his diary on January 3, 1938.
「病院の医療ボランティアが、この女性のことを1938年1月3日の彼の日記に書いている。」
This one who came to us had been called off by three soldiers into an isolated place where they attempted to cut off her head. The muscles of the neck had been cut but they failed to sever the spiral cord. She feigned death but dragged herself to the hospital ? another of the many to bear witness to the brutality of soldiers.
「私たちのところに来たこの女性は、三人の兵士に呼び出され、離れた場所に連れて行かれて、そこで彼らは彼女の首を切り落とそうとした。首の筋肉は切断されたが、彼らは脊髄を切断することには失敗していた。彼女は死んだ振りをして、自分の力で病院までたどり着いた。こうして、彼女は兵士たちの蛮行を目撃した多数の証人の新たな一人になった。」
【コメント】
頚部を脊椎近くまで切られて、なお歩いたり言葉を発したりできるって、まるでゾンビです。
こうしてみると、「チャン」がウィルソンの女房と電話で話をして仕入れは話も、モウロク婆さんとウソつきシナ人の掛け合い漫才が生んだ与太話、と断言してよさそうです。
Cafe Kiessling マリノフ利江様 ドイツ語の原史料から、Cafe Kiesslingが太平路にあった、というふうに読み取れるでしょうか?(未送信)
皆様 部隊別の行動を検証する必要を感じ、手元のメモから下記サイトを立ち上げました。冨澤繁信氏が著書「南京事件の核心」のなかで「アリバイ」という言葉を述べています。事件が起きた同一の場所と時間に、別の場所にいれば、その被疑者はシロとなります。宇都宮および水戸の連隊のようにまだ記載内容のない部隊もありますが、今後、版を重ねて充実させていく所存です。 部隊別行動 http://www.howitzer.jp/topics/page14.html これの上位リンクは、「レイプ・オブ・南京の研究・私家版」として、下記サイトから手繰っていきます。今後、このページが、私にとっての「反論プロジェクト」のホームページになります。 「レイプ・オブ・南京」の研究・私家版 http://www.howitzer.jp/topics/index5.html 萩野谷
人口の集中
日本軍の入城後に安全区以外の場所に人影を見なかったことは、日本側の戦闘詳報や陣中日記等の資料で確認できるわけですが、「人口の集中」は大事なテーマなので、いま少し、「南京安全区トウ案」「ラーベ日記」等の記録を捜してみます。人がいない場所で大量殺人などできませんから。
ウィルソン文書
例えば、上で挙げた「南京事件資料集 @アメリカ関係資料編 (南京事件調査研究会/編 青木書店)」のp.282に、Robert O. Wilsonの12月18日付け文書として、下記の記述が見えます。
「町の九割の地域から中国人の姿なくなり、かわって、掠奪を働く日本兵が隊を組んでうろつき回っている。残りの一割の地域に、恐怖におののいた20万人に達する中国人がひしめきあっている。」
この原英文を“Eyewitnesses to Massacre”(Zhang Kaiyuan編)で捜すと、p.394に次のように有りました。
"Nine-tenths of the city are totally deserted by Chinese and contain only roving bands of plundering Japanese. The remaining tenth contains almost two hundred thousand terrified Citizens.”
一部訂正(ダーディンの通信記録)
但し、「陥落時の南京市内の人口が安全区に集中していたこと」は東中野先生の著書「南京虐殺の徹底検証」と冨澤繁信氏の著書「南京事件の核心」に詳細に書かれていますので、後刻、しっかりした関連記録をもって報告します。
ヴォートリン日記には、12月8日の条に、次のように書かれています。
“This evening we are receiving our first refugees and what heartbreaking stories they have to tell. They are ordered by Chinese military to leave their homes immediately; if they do not they will be considered traitors and shot. In some cases their houses are burned. Most of the people come from near South Gate and the southeast part of city.” (p24, “The Undaunted Women of Nanking”)
「今夜は、初めて避難民を受入れている。彼女たちが聞かせてくれる話は、何と心の痛む話だろう。中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。」
陥落時の南京の人口
恐らく、「チャン本」の全頁を通じて最大の弱点の一つが「陥落時の南京の人口」ではないかと思います。
「チャン本」の第4章には、「陥落時の南京の人口」に関して、次の記述が見えます。
p.81
Approximately half the original population departed: before the war, the native population of the city exceeded 1 million people and by December it had fallen to about half a million.
「元の人口の約半分が避難した。つまり、戦争の前には南京市の人口は100万人を超えていたから、それは12月に半分の50万人にまで減少していたということになる。」
p.81
However, the city was swollen with tens of thousands of migrants from the countryside who had left their homes for what they believed would be safety within the city walls.
「しかし、城壁の内部は安全であると信じて自分たちの家を後にして入城した周辺地域からの数十万人の避難民で南京の人口は膨れ上がっていた。」
p.100
Perhaps no one has made a more thorough study of the statistics than Sun Zhaiwei, a historian at the Jiangsu Academy of Social Sciences. In a 1990 scholarly paper entitled “The Nanking Massacre and the Nanking Population,” he reports that, according to census reports, the population in Nanking in 1937 exceeded 1 million before hostilities broke out between Japan and China.
「おそらく、江蘇省社会科学院研究員の孫宅巍ほど純粋な統計研究を行った者はいないだろう。1990年に書いた「南京大虐殺と南京の人口」と題する学術論文の中で彼は、人口統計の資料に基づき、日中間の敵対関係が発生する前の南京の人口は100万人を超えていたと分析した。」
p.100
Using Chinese archival material, memoirs from Chinese military officials, and reports of the Nanking branch of the Red Cross, Sun determined that at the time of Japanese occupation there were at least half a million long-term residents in the city (the rest had already left the city), plus 90,000 Chinese soldiers and tens of thousands of migrants ? a total of approximately 60,000 people in Nanking, perhaps even 700,000.
「中国の公文書、中国軍将校の回想、および赤十字南京文会の報告書に基づき、孫は日本軍の占領当時、市内には少なくとも五〇万人以上の長期居住者がいて(それ以外の人はすでに市を去っていた)、九万人の中国軍兵士、数万人の避難民がそれに加わり、全体としておよそ六〇万人、むしろ七〇万人程度がいたと結論づけた。」
「チャン本」は、@「ラーベ日記」やA「スマイス報告」、更にはB徐淑希の「南京安全区トウ案Documents of the Nanking Safety zone」について、本文や註釈で言及しています。にも関わらず、これら@ABの文中に述べられている「陥落時の南京の人口」については全く触れず、江蘇省社会科学院研究員の孫宅巍なる人物の報告書のみに依拠して、上記にあるように、「全体としておよそ六〇万人、むしろ七〇万人」としています。
すなわち、@「ラーベ日記」は、次のように記述しています。。
「警察署長王固盤は、南京には中国人がまだ20万人住んでいるとくりかえした。」
(「南京の真実」11月28日の条)
“Wang Kopang, the chief of police, has repeatedly declared that 200,000 Chinese are still living in the city.” (THE GOOD MAN OF NANKING by John Rabe, p.39)
また、A「スマイス報告」は、次のように記述しています。
The city of Nanking had before the war a population of just 1,000,000, which was considerably reduced by repeated bombings and latterly by approaching attack and removal of all Chinese governmental organs. At the time the city fell (December 12-13), its population was between 200,000 and 250,000. (War Damage in the Nanking Area, December, 1937 to March 1938, Urban and Rural Surveys by Dr. Lewis S. C. Smythe, p4) Professor of Sociology, University of Nanking
B徐淑希の「南京安全区トウ案」では、「ラーベ日記」にある王固盤の数字をそのまま使い、陥落直後の南京の人口を20万人として記述しています。人口が記述されている部分を抜書きすると、次のようになります。
http://www.howitzer.jp/nanking/page08.html
「チャン本」は、これら@ABの文書中の数字と異なる研究資料の数字を敢えて採用する合理的理由を述べていません。そして、次のように述べます。
- The Zone eventually accommodated some 200,000 ? 300,000 refugees ?almost half the Chinese population left in the city. The last is a chilling statistics when placed in the context of later studies of the Nanking massacre. Half the original inhabitants of Nanking left before the massacre. About half of those who stayed (350,000 people out of the 600,000 -700,000 Chinese refugees, native residents, and soldiers in the city when it fell) were killed. If half of the population of Nanking fled into the Safety Zone during the worst of the massacre, then the other half ? almost everyone who did not make it to the zone ? probably died at the hands of the Japanese. (チャン本 第5章 p.139)
「最終的に、安全区は20万人から30万人の難民を収容した。これは市内に残っていた中国人の半数近くになる。 後の南京大虐殺の研究を総合すると、最期にぞっとするような統計が得られる。南京の元の住民の半分は大虐殺の前に南京を離れた。南京にいた人々の約半数(市の陥落時にいた中国人の難民、以前からの居住者、および兵士の合計の60万人から70万人のうちの35万人)が殺された。 大虐殺の最悪の時期に、南京の人々の半数が安全区に逃げ込んでいたとするならば、残りの半分は、つまり安全区に避難しなかった人のほぼ全員が、日本人の手によって死んだのではないかということになる。」
また、この記述から、チャンの認識の中に、12月8日に「南京市民は全員安全区に避難せよ、さもなくばスパイと見做す」という唐生智の命令が布告されている事実認識がないようです。この命令があったことは、少なくともダーディンの通信記録とウォートリン日記から証拠立てることができますので、安全区の20万人の他に30万人も40万人もいたなどということは容易に否定できます。
第4章の他の部分は、また稿を改めて連絡します。
幕府山事件
以下は、阿羅先生のアドバイス
この問題については、昭和十二年十二月に書かれた一次資料に当たればよいと考えま す。このような記述があります。十五日の飯沼参謀長の日誌
「山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千あり 尚増加の見込みと、依って取 り敢えず16Dに接収せしむ」
十五日の山田支隊長の日記
「捕虜の始末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり」十六日の山田支隊長の日記
「相田中佐を軍に派遣し、捕虜の始末其他にて打ち合わせをなさしむ」
十七日の両角連隊長の日記
「Tは俘虜の開放準備、同夜開放」
十八日の両角連隊長の日記
「俘虜脱逸の現場視察」
二十一日の飯沼参謀長の日記
「山田支隊の捕虜一万数千人は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同 時に同一場所に連行せり為彼等に騒がれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共 に射殺し且相当数に逃げられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原 参謀連絡に行きしも遂に要領を得ずして帰りしは此の不始末の為なるべし」
二十一日の上村参謀副長の日記
「N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り大集団反抗し敵味方共に MGにて撃ち払い散逸せるもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり」
これらにより、次のようだったと考えられます。
山田支隊長はたくさんの捕虜を抱えて困り、上海派遣軍司令部に問い合わせた。上海 派遣軍の飯沼参謀長は第十六師団に接収させようとしたが、山田支隊長には殺せと伝 わった。山田支隊長はもう一度問い合わせ、その結果、捕虜を解放しようとした。し かし捕虜が反抗し、日本軍にも死者が出た。上海派遣軍は捕虜を上海に送って労役に 就かせようと榊原参謀を派遣したが、それができず、山田支隊がしっかりしていれば、こういうことにはならなかったのにと考えた。
こういうことだと思います。
想像するに、本間少尉が司令部に行ったとき、司令部は混雑していて、誰かが殺せと 言い(長中佐?)、本間少尉はそのまま持ち帰った。同じころ飯沼参謀長は第十六師 団に任せて上海に送ろうと考えていた。山田支隊は解放しようとしたが、言葉が十分 に伝わらず、混乱が起きたもので、日本の不法行為でないことは明白である。
占領1ヶ月後の{1938年1月中旬}には、大量の米と小麦を南京住民に配給していた。この事実は、(中略)ラーベが1月14日付で日本大使館に提出した報告書に明らかである。(41号文書)(中略)ところが、8年後の東京と南京での戦犯法廷では、南京市内で米と小麦が配給された{1938年1月中旬}は南京大虐殺の真っ最中であったとされる。
(「日中戦争の不都合な真実」北村稔 p.45)
They are getting rice from the Japanese - formerly Chinese military rice.
(Minnie Vautrin - January 13)
城内において百万俵以上の南京米を押収する (佐々木到一著「南京攻略記」12月15日の条、昭和戦争文学全集別巻 p258)
ともあれ、幕府山要塞の地下倉庫に備蓄された食糧が発見された。 渡りに舟とばかりに、それがバラック棟に運びこまれる。 やがて、投降兵自ら自給自足するよう、指示が出た。投降兵の炊事が始まった。(徹底検証p132)
(丸山進)氏は、下関と浦口にある軍管理の食糧倉庫から数千袋の米を、 数回にわたって自治委員会に無償で払い下げた。(徹底検証p288)
京都十六師団経理部の金丸吉生軍曹は、陥落二日後の十二月十五日から、 下関の製粉工場(正しくは三叉河畔の大同製粉工場)を接収して野戦倉庫とし、 そこにある大量の小麦粉を、捕虜を指揮して京都十六師団の各部隊に配給するのが任務となった。(再現南京戦p116)
軍の入城式は十二月十七日であったが、私(上海派遣軍後方参謀・榊原主計少佐)は入城式に先立ち、十三、十四日頃、中山門から市内に入りました。 俘虜は相当あるのではないかと思いましたが、支給する食糧や収容場所などが決定しなかったので、 取り敢えず各隊で持っておれ、移管の時機は速やかに示すこととしました。 ところが無錫の倉庫で米約六千袋を押収したとの報告をうけ、また刑務所や監獄が使用できるようになったので、 入城式の前後に俘虜の移管を受けた記憶があります。 (再現南京戦p250)
「再現南京戦」は、「再現 南京戦」(東中野修道/著)をいう。
>ところで先週Minni Vautrinの日記1937年9月から12月末・1938年一月はじめの部分を読みましたが、虐殺を匂わせるような内容はありませんでした。
そうなのですよ。どんな恐ろしいことが書いてあるのかと思って、恐る々々読んで行くと拍子抜けしてしまいます。時々、兵が入り込んでヴォートリンが追い払いに行く場面がありますが、それだけ。12月16日の夜、トラックに載せられた少女らが「助けて、助けて」と叫んでいるのを門付近で見たとありますが、16日は入城式を翌17日に控えて掃討戦mop-up operation の真っ最中だから、入城した日本軍に女をかっさらって行って慰みものにする余裕なんてないと思いますね。逃げていく支那兵が行きがけの駄賃にかっさらっていったのでしょう。
Minni Vautrinの日記を読んで行くと、日本大使館が将校や警備兵を派遣して金陵女子文理院内の難民を守ろうとしている様子さえ出てきます。
12月20日を過ぎたあたりから安全区内の道路に泥棒市場ができ、正月3日には「上海路が夫子廟の旧正月のような賑わい」と云っています。
個々の兵隊による強姦事件はゼロではなかったでしょうけれども、何千何万なんて強姦は有り得ない。
「チャン本」は「強姦された中国人女性は2万人から8万人に上ると見積もられている」(p.6, 89)なんて言っていますが、ヴォートリン日記の内容とダイレクトに矛盾します。
常識的に考えても、20〜25万人と見積もられている南京安全区で、2万-8万件の強姦なんて有り得ません。
ベイツは東京裁判で南京戦に参加した日本兵の数を約5万人とし、「チャン本」は「9万人の支那軍よりはるかに少ないvastly outnumbered」というだけでは概数を出しておらず、日本側の記録では7万5千人が妥当、としています。いずれにせよ、5万〜7万人で攻めて30万人殺し、2万人以上を強姦するってのは精力絶倫すぎですし、逆に言うと「支那兵、弱っ!」って感じです。それに加えて、滋養強壮のために中国人のペニスを食う(チャン本pp.88-89)という記述にいたっては、荒唐無稽に過ぎて、いかがなものか。
「チャン本」の第4章は、これでもか、これでもか、というぐらい残虐な殺し方のオンパレードですけれども、それらの記述は済南事件・通州事件で沢山の日本人が殺された様子とそっくりです。
特に、生埋め、ヴァギナに棒を突っ込む、この二つだけは日本人の殺人パターンではない、と言い切ります。日本の歴史・犯罪史のどこを探しても、この二つの殺し方は出てこない。
強姦に関係した「チャン本」とベイツの証言について、下記に書き出しておきます。いずれも、ヴォートリン日記の内容に矛盾します。
「チャン本」p.6
An estimated 20,000-80,000 Chinese women were raped.
強姦された中国人女性は2万人から8万人に上ると見積もられている。
「チャン本」p.89
It is impossible to determine the exact number of women raped in Nanking. Estimates range from as low as twenty thousand to as high as eighty thousand.
南京で強姦された女性の正確な人数を確定することは不可能である。推定値は最小の2万人から最大の8万人までの範囲に広がる。
東京裁判・ベイツ証言(下記の英文は「東京裁判英文速記録 p.2,632-2650」から引用。和訳は「南京大虐殺はこうして作られた 東京裁判の欺瞞」(冨士信夫著)に有ったものに萩野谷が若干手を入れた。 注:「ラーベ」の綴りはRabeが一般的ながら、ここではRaabeとなっている。)
p. 2, 630 line 9
Professor Smythe and I concluded, as a result of our investigations and observations and checking of burials, that twelve thousand civilians, men, women and children, were killed inside the walls within our own sure knowledge.
スマイス教授と私は、我々自身の調査と観察、遺体埋葬数の確認の結果、我々が確かに知っている範囲内で、城内で1万2千人の男女及び子供を含む民間人が殺されたことをもって結論とする。
p.2,633 line17
The safety zone case reports, to which we have previously referred, and my own records of what occurred among the thirty thousand refugees on the various grounds and in the building of the University of Nanking, hold a total of many hundreds of cases of rape about which exact details were furnished to the Japanese authorities at that time. One month after the occupation, Mr., Raabe, the Chairman of the International Committee, reported to the German authorities that he and his colleagues believe that not less than twenty thousand cases of rape had occurred. A little earlier I estimated, very much more cautiously and on the basis of the safety cases alone, some eight thousand cases.
先ほど申し述べた安全地区委員会の報告および自分自身の調査で、南京大学構内にいた3万人の避難民に、数百件の強姦が発生したことが書いてあり、その正確な詳細が、全て報告として当時、日本官憲に渡されたのである。占領後1ヶ月して、委員長ラーベ氏およびその同僚は、ドイツ官憲に対して、少なくとも2万人の強姦事件があったと確信していると報告した。それより少し前、私はもっとずっと内輪に見積り、安全地帯内の委員会の報告のみを根拠として、強姦事件は8千件と見積もった。
萩野谷 拝
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