夫子廟付近の雑踏(2月20日:南京陥落から69日目)


初稿:2019年1月20日
最新の更新日:1月26日
鹿島 明

下の写真は、「南京事件の核心」(冨澤繁信/著)p124に掲載されている夫子廟付近の写真である。キャプションの説明によれば、 撮影日は2月20日、撮影者は「岡(美)特派員」とある。
 

夫子廟の位置を南京市の略図で確認すると、下ので囲まれた位置になる。

この夫子廟付近の写真が重要な理由は、

    1)南京陥落(12月13日夕)から70日弱の時点で撮影されていること、
    2)往来する市民の様子に恐怖や屈託・緊張感がなく、広場の中央では祭礼のようなものが行われ、出店まである。 (時期から見て、旧正月を祝う春節の祭りではないだろうか)
    3)人力車が復活して、南京市民が市内のある程度まで広い範囲に行っている様子が伺われること、
にある。

 南京市の面積は、ほぼ鎌倉市と同じです。 中央ロータリーから4kmの円を描くと、市域の大半が収まってしまう。従って、 この時、南京市民は市内のほぼ全域に、おそらくは半日以内に行く事ができた、と推定される。


この写真を「南京大虐殺The Rape of Nanking」(アイリス・チャン著)に収録された地図と見比べ、虐殺事件があったとされる位置を確認しよう。 同書によれば、揚子江沿い、南京城の郊外や城壁沿いの場所に加えて、夫子廟の近辺でも虐殺事件が数件発生していることになっている。

日本軍が到着する以前、南京防衛にあたる支那軍は、射界を確保するため南京市から半径10マイル(16km)の町々の建物や障害物を焼き払っていたことは、よく知られている。 これほど広大な範囲に、かくも多数の市民が予想される戦場から逃げ出すこともなく存在していたというのは考えられない。

もう少し詳しい分析をしてみる必要があるだろう。

「戦争とは何かWhat War Means」(Harold J. Timperley著) は次のように記している。

「なお注意してほしいことは、ここに記録された事件はただ南京安全区内で起きたものだけであり、南京のこれ以外の場所は一月末まで事実上、無人地帯となっていたのであって、この期間中、ほとんど外国人の目撃者がなかったということである。」(p.143, 付録A冒頭ページ)

南京城陥落の当日(昭和12年12月13日)、中山門から撮影した下記の写真は、上記ティンパーリの記述を裏付けているようだ。右図が示すように、1937年の南京市は人口稠密な区域(黒点の多い地域)と人口希少な区域(黒点の少ない地域)に分かれていた。

更に、New York Times記者Tillman Durdinが12月8日に南京から発した電報によれば、 「南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し、すべての非戦闘員は、国際管理下の安全区に集結しなければならない、と布告した。市内他地区での非戦闘員の移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可の所有者を除いて、禁じられる。」(南京資料集@アメリカ関係資料編p.390)としている。

これは、日本軍が攻撃を開始した12月10日までに、すべての非戦闘員が安全区に集められており、一般市民が安全区の外に出ることは禁じられていた、ということを意味する。 John Rabeが12月17日付で日本大使館宛てに送った手紙に「言い換えれば、貴軍が入城した13日までに我々は、ほとんどの市民に安全区に集まって貰っていた」(九号文書)とあるのは、上記の事情を裏付けている。

ここで大きな疑問が湧いてくる。「戦争とは何か」の記述が正しければ、「ザ・レイプ・オブ・南京」中の地図にX記号で虐殺現場を示したアイリス・チャンの根拠は何だろうか。当時の南京市は、安全区以外は「事実上、無人地帯」だったのだから。無人地帯で虐殺はできない。

「南京大虐殺の存在は、資料的に十分に裏付けられている」と主張する人々がいる。もし、そうであれば、それらの人々は、上で示された夫子廟の平穏な様子を、どう説明するのだろうか。

「資料的に十分に裏付けられている」のであれば、その最たる事例として「極東国際軍事裁判(以下、「東京裁判」という)の判決文が挙げられるだろう。

  東京裁判の判決文は、次のようである。

「12月13日の朝、日本軍が市内に入ったときには、(支那軍の)抵抗は止んでいた…… …..中略……. 日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。日本兵は同市を荒らし汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。兵隊は個々に、または2、3人の小さな集団で全市内を歩きまわり、殺人・強姦・略奪・放火を行った。そして、無抵抗な中国人の男女子供を無差別に殺しながら兵は街を歩きまわり、ついには、ところによっては大通りや裏通りに被害者の死体を散乱したほどであった。….南京市占領後の2、3日のうちに、このような無差別殺人によって殺された中国人の男女子供は、少なくとも1万2千人を超えた。 …..中略……. 後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている、これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が15万5千体に及んだ事実によって証明されている。…….」

→英文の該当部分

判決文のうちの、「日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている」の部分に着目して欲しい。
  占領から6週間なら1月末だ。なのに、2月20日に撮影されている写真に、市民の緊張した様子は見られない。
  もし判決文どおりの状況なら、遺体は散乱して異臭を放ち、鬼哭啾啾といった光景が、いたるところに現出しているはずである。 たとえ、そのような陰惨な光景が夫子廟から遠く離れた場所に現出していたとしても、 人力車で市内のどこにでも行くことのできた南京市民が、そのことを知らないはずがない。 ところが、南京市民は集まって祭礼をやり、なんら怯える様子もなさそうに出店で買い物などをしている。


 

   「南京大虐殺」が存在したと主張する人は、この、なんとも平和な光景を、どう説明するのか?

  松井大将個人に対する判決文でも、「この暴虐な犯罪行為は1937年12月13日の南京市占領に始まり、1938年の2月初旬まで止むことはなかった。 この6〜7週間に数千人の女性が強姦され、10万人以上が殺され、数をも知れない量の財産が盗まれ、または焼失した。」となっている。

→英文の該当部分

  もし「2月初旬」を、2月10日で区切るとすれば、2月20日に撮影されている写真に、 どうして恐怖に逃げ惑い、必死の形相で南京市から脱出しようとしている市民の姿が見られないのか。


  我々は、サイゴン陥落に伴い南ベトナムから脱出しようとしているボートピープルの表情、 シリア内戦を避けて陸続と地中海方面に逃れようとする難民の表情を知っている。

  どうして、そのような悲痛な表情や様子が、ここに見られないのか。

  いわゆる「南京大虐殺」が虚構であり、東京裁判が虚構のうえに行われた「司法殺人」である所以だろう。
 


 


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