占領1ヶ月後の{1938年1月中旬}には、大量の米と小麦を南京住民に配給していた。この事実は、(中略)ラーベが1月14日付で日本大使館に提出した報告書に明らかである。(41号文書)(中略)ところが、8年後の東京と南京での戦犯法廷では、南京市内で米と小麦が配給された{1938年1月中旬}は南京大虐殺の真っ最中であったとされる。
(「日中戦争の不都合な真実」北村稔 p.45)
They are getting rice from the Japanese - formerly Chinese military rice.
(Minnie Vautrin - January 13)
城内において百万俵以上の南京米を押収する (佐々木到一著「南京攻略記」12月15日の条、昭和戦争文学全集別巻 p258)
ともあれ、幕府山要塞の地下倉庫に備蓄された食糧が発見された。 渡りに舟とばかりに、それがバラック棟に運びこまれる。 やがて、投降兵自ら自給自足するよう、指示が出た。投降兵の炊事が始まった。(徹底検証p132)
(丸山進)氏は、下関と浦口にある軍管理の食糧倉庫から数千袋の米を、 数回にわたって自治委員会に無償で払い下げた。(徹底検証p288)
京都十六師団経理部の金丸吉生軍曹は、陥落二日後の十二月十五日から、 下関の製粉工場(正しくは三叉河畔の大同製粉工場)を接収して野戦倉庫とし、 そこにある大量の小麦粉を、捕虜を指揮して京都十六師団の各部隊に配給するのが任務となった。(再現南京戦p116)
軍の入城式は十二月十七日であったが、私(上海派遣軍後方参謀・榊原主計少佐)は入城式に先立ち、十三、十四日頃、中山門から市内に入りました。 俘虜は相当あるのではないかと思いましたが、支給する食糧や収容場所などが決定しなかったので、 取り敢えず各隊で持っておれ、移管の時機は速やかに示すこととしました。 ところが無錫の倉庫で米約六千袋を押収したとの報告をうけ、また刑務所や監獄が使用できるようになったので、 入城式の前後に俘虜の移管を受けた記憶があります。 (再現南京戦p250)
「再現南京戦」は、「再現 南京戦」(東中野修道/著)をいう。
>ところで先週Minni Vautrinの日記1937年9月から12月末・1938年一月はじめの部分を読みましたが、虐殺を匂わせるような内容はありませんでした。
そうなのですよ。どんな恐ろしいことが書いてあるのかと思って、恐る々々読んで行くと拍子抜けしてしまいます。時々、兵が入り込んでヴォートリンが追い払いに行く場面がありますが、それだけ。12月16日の夜、トラックに載せられた少女らが「助けて、助けて」と叫んでいるのを門付近で見たとありますが、16日は入城式を翌17日に控えて掃討戦mop-up operation の真っ最中だから、入城した日本軍に女をかっさらって行って慰みものにする余裕なんてないと思いますね。逃げていく支那兵が行きがけの駄賃にかっさらっていったのでしょう。
Minni Vautrinの日記を読んで行くと、日本大使館が将校や警備兵を派遣して金陵女子文理院内の難民を守ろうとしている様子さえ出てきます。
12月20日を過ぎたあたりから安全区内の道路に泥棒市場ができ、正月3日には「上海路が夫子廟の旧正月のような賑わい」と云っています。
個々の兵隊による強姦事件はゼロではなかったでしょうけれども、何千何万なんて強姦は有り得ない。
「チャン本」は「強姦された中国人女性は2万人から8万人に上ると見積もられている」(p.6, 89)なんて言っていますが、ヴォートリン日記の内容とダイレクトに矛盾します。
常識的に考えても、20〜25万人と見積もられている南京安全区で、2万-8万件の強姦なんて有り得ません。
ベイツは東京裁判で南京戦に参加した日本兵の数を約5万人とし、「チャン本」は「9万人の支那軍よりはるかに少ないvastly outnumbered」というだけでは概数を出しておらず、日本側の記録では7万5千人が妥当、としています。いずれにせよ、5万〜7万人で攻めて30万人殺し、2万人以上を強姦するってのは精力絶倫すぎですし、逆に言うと「支那兵、弱っ!」って感じです。それに加えて、滋養強壮のために中国人のペニスを食う(チャン本pp.88-89)という記述にいたっては、荒唐無稽に過ぎて、いかがなものか。
「チャン本」の第4章は、これでもか、これでもか、というぐらい残虐な殺し方のオンパレードですけれども、それらの記述は済南事件・通州事件で沢山の日本人が殺された様子とそっくりです。
特に、生埋め、ヴァギナに棒を突っ込む、この二つだけは日本人の殺人パターンではない、と言い切ります。日本の歴史・犯罪史のどこを探しても、この二つの殺し方は出てこない。
強姦に関係した「チャン本」とベイツの証言について、下記に書き出しておきます。いずれも、ヴォートリン日記の内容に矛盾します。
「チャン本」p.6
An estimated 20,000-80,000 Chinese women were raped.
強姦された中国人女性は2万人から8万人に上ると見積もられている。
「チャン本」p.89
It is impossible to determine the exact number of women raped in Nanking. Estimates range from as low as twenty thousand to as high as eighty thousand.
南京で強姦された女性の正確な人数を確定することは不可能である。推定値は最小の2万人から最大の8万人までの範囲に広がる。
東京裁判・ベイツ証言(下記の英文は「東京裁判英文速記録 p.2,632-2650」から引用。和訳は「南京大虐殺はこうして作られた 東京裁判の欺瞞」(冨士信夫著)に有ったものに萩野谷が若干手を入れた。 注:「ラーベ」の綴りはRabeが一般的ながら、ここではRaabeとなっている。)
p. 2, 630 line 9
Professor Smythe and I concluded, as a result of our investigations and observations and checking of burials, that twelve thousand civilians, men, women and children, were killed inside the walls within our own sure knowledge.
スマイス教授と私は、我々自身の調査と観察、遺体埋葬数の確認の結果、我々が確かに知っている範囲内で、城内で1万2千人の男女及び子供を含む民間人が殺されたことをもって結論とする。
p.2,633 line17
The safety zone case reports, to which we have previously referred, and my own records of what occurred among the thirty thousand refugees on the various grounds and in the building of the University of Nanking, hold a total of many hundreds of cases of rape about which exact details were furnished to the Japanese authorities at that time. One month after the occupation, Mr., Raabe, the Chairman of the International Committee, reported to the German authorities that he and his colleagues believe that not less than twenty thousand cases of rape had occurred. A little earlier I estimated, very much more cautiously and on the basis of the safety cases alone, some eight thousand cases.
先ほど申し述べた安全地区委員会の報告および自分自身の調査で、南京大学構内にいた3万人の避難民に、数百件の強姦が発生したことが書いてあり、その正確な詳細が、全て報告として当時、日本官憲に渡されたのである。占領後1ヶ月して、委員長ラーベ氏およびその同僚は、ドイツ官憲に対して、少なくとも2万人の強姦事件があったと確信していると報告した。それより少し前、私はもっとずっと内輪に見積り、安全地帯内の委員会の報告のみを根拠として、強姦事件は8千件と見積もった。
萩野谷 拝
![]() |
To the top of this page |
![]() |
Return to Home |