人口の集中
南京はもともと南の中華門寄りが中心地で、市政府などもその一画にありました。しかし長年のあいだ雑多な下町となり、南京に残った貧民はほとんどここに住んでいました。
とくに中華門と西側の城壁を結ぶ城壁から北側に住んでおり、ここに入った日本軍は大分の歩兵第四十七連隊と都城の歩兵第二十三連隊ですが、彼らの記録を見ると中国人はほとんどいませんでした。
つまり南京に残った市民はその北側にある安全区に移ったのです。 阿羅健一
幕府山事件
この問題については、昭和十二年十二月に書かれた一次資料に当たればよいと考えま
す。このような記述があります。
十五日の飯沼参謀長の日誌
「山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千あり 尚増加の見込みと、依って取
り敢えず16Dに接収せしむ」
十五日の山田支隊長の日記
「捕虜の始末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり」
十六日の山田支隊長の日記
「相田中佐を軍に派遣し、捕虜の始末其他にて打ち合わせをなさしむ」
十七日の両角連隊長の日記
「Tは俘虜の開放準備、同夜開放」
十八日の両角連隊長の日記
「俘虜脱逸の現場視察」
二十一日の飯沼参謀長の日記
「山田支隊の捕虜一万数千人は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同
時に同一場所に連行せり為彼等に騒がれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共
に射殺し且相当数に逃げられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原
参謀連絡に行きしも遂に要領を得ずして帰りしは此の不始末の為なるべし」
二十一日の上村参謀副長の日記
「N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り大集団反抗し敵味方共に
MGにて撃ち払い散逸せるもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千
万なり」
これらにより、次のようだったと考えられます。
山田支隊長はたくさんの捕虜を抱えて困り、上海派遣軍司令部に問い合わせた。上海
派遣軍の飯沼参謀長は第十六師団に接収させようとしたが、山田支隊長には殺せと伝
わった。山田支隊長はもう一度問い合わせ、その結果、捕虜を解放しようとした。し
かし捕虜が反抗し、日本軍にも死者が出た。上海派遣軍は捕虜を上海に送って労役に
就かせようと榊原参謀を派遣したが、それができず、山田支隊がしっかりしていれば
こういうことにはならなかったのにと考えた。
こういうことだと思います。
想像するに、本間少尉が司令部に行ったとき、司令部は混雑していて、誰かが殺せと
言い(長中佐?)、本間少尉はそのまま持ち帰った。同じころ飯沼参謀長は第十六師
団に任せて上海に送ろうと考えていた。山田支隊は解放しようとしたが、言葉が十分
に伝わらず、混乱が起きたもので、日本の不法行為でないことは明白である。
To the top of this page
Return to Home