南京事件の検証



「南京虐殺」はなかった 森王琢(もりおう・みがく)
※平成4(1992)年4月に岡山国民文化懇談会(代表・三宅將之氏)で開かれた森王琢氏の講演記録。


関連サイト/参考本

他サイト


田所耕三

田所耕三 は1971年に『アサヒ芸能』で、「私らは下関(南京城西北端の船着場)にいた。鉄条網の鉄条を外して、捕まえた連中を十人ぐらいずつ束にして、井げたに積み上げて油をかけて燃やしちゃった。(略)女が一番の被害者だったな。年寄りから何から全部やっちまった。トラックで部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊にわける。兵隊十五人から二十人に女ひとり。支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから必死なんだろうけど、なかなかいい」「見せしめの為に捕虜を傷つけることもやった。耳を削ぎとる。鼻をけずる。口の中に帯剣を差し込んで切り開く。目の下に帯剣を横にして突っ込むと、魚の目のようなドロリとした白いものが五寸くらい垂れる。こんなことでもやらないと、ほかに楽しみがない。上陸以来久しぶりの遊戯なんだから。将校?知らんぷりをしていたな」と証言[9][10]。その後、田所証言は洞富雄、アイリス・チャン[11]、本宮ひろ志の『国が燃える』で引用された。またニューズウィーク1997年11月30日は田所証言(第114師団)を紹介しながら、1971年のインド・パキスタン分離独立でのパキスタン軍兵士によるベンガル女性への集団レイプを除くならば、南京事件での集団レイプは世界史上最大だったと主張した[12]。しかし、板倉由明によれば、水戸の兵士なら第102連隊で下関までは行っていないし、また数日後には南京から転進しており、証言は信憑性がないとして「ニセ証言者」であると結論した[13]。後に阿羅健一が田所に面会すると「(ルポライターが)南京での残忍な話に執心するので、しばらくして南京での作り話をしてやると、ルポライターは目の色を変えてそれらを書き留めだした。その態度を見て、わたしはいっそう膨らまして話をした。ルポライターはさらにのってきた。それがあの証言で、私自身は城内に入ってもいなければ、下関にも行っていない。あの話はまったくのウソなのだ」と証言が虚偽であるとした[14]。

また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。


To the top of this page
Return to Home