1月2日の南京安全区
東京裁判の判決文は、次のように記述している。
「後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、
南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は二十万以上であった
ことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の
団体が埋葬した死骸が十五万五千に及んだ事実によって証明されている。」
南京城(又は市)の陥落は1937(昭12)年12月13日である。
その日は日本軍の各隊とも斥候を出して市内の偵察をしているから、
本格的な占領は翌14日から、ということもできる。いずれにせよ、
12月半ばから6週間という時間を取れば、1月末ないし2月初旬まで
20万人以上を殺していたというのが、東京裁判判決である。
一方、下記の写真は「南京の真実」(講談社文庫)の巻頭に収められている写真である。
この写真の説明として、同書は1月2日の条に
「安全区の通りは、あいかわらず見渡すかぎりの人の海だ」と述べている。同書は、いわゆる「ラーベの日記」と言われるものであり、1月2日の条は、南京安全区委員会・委員長のジョン・ラーベ(John Rabe)の筆になるものである。
この街の雑踏・賑わいが、一日平均4,760人の殺害が行われている街の光景だろうか。
(出典)「南京の真実」(講談社文庫版 巻頭写真)
東京裁判判決の誤謬
20万人を42日で割れば、一日平均4,760人の殺害である。
安全区外で大量殺人が行われていた、と人は言うかもしれない。 しかし、南京攻略戦が始まる前から、民間人はすべて安全区内に集められており、 それ以外の地域に人は殆どいなかった。以下の記述が、そのことを示している。
(1) 12月8日付 NYT ダーディン発電報
「12月8日、唐生智は、全城門を閉鎖した。[中略]
そして唐生智は、城内の市民に対しては安全地帯に集結するよう、そして黄色の腕章に特別の印のある特別許可証を携帯するもの以外、安全地帯の外を出歩かないよう命令を発した。」
(出典:12月8日付 NYT ダーディン発 電報)−「南京事件資料集 @アメリカ関係資料編 (南京事件調査研究会/編 青木書店)」p.389)
(2) 「ヴォートリン日記」12月8日の条
(翻訳)「今夜は、初めて避難民を受入れている。彼女たちが聞かせてくれる話は、何と心の痛む話だろう。中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。」
(原英文)
“This evening we are receiving our first refugees and what heartbreaking stories they have to tell.
They are ordered by Chinese military to leave their homes immediately; if they do not they will be considered traitors and shot. In some cases their houses are burned.
Most of the people come from near South Gate and the southeast part of city.”
(出典:"Terror in Minnie Vautrin's Nanjing" by Minnie Vautrin p.69)
(3) 南京安全区档案・第九号文書(12月17日付)
(翻訳)「言い換えると、帰国軍隊が本市に入城した13日、私どもは市民のほぼ全員を安全区という一地区に集合させていたが、そこでは、流れ弾による被害は殆どなかったし、全面退却中であっても中国兵達による略奪もなかった。」
発;ジョン・H・D・ラーベ 宛:日本大使館
日付:1937年12月17日
(原英文)
LETTER TO JAPANESE EMBASSY
December 17,1937
“….In other words, on the 13th when your troops entered the city, we had nearly all the civilian population gathered in a Zone in which there had been very little destruction by stray shells and no looting by Chinese soldiers even when in full retreat….”
JOHN H.D. RABE Chairman
(4) Robert O. Wison(金陵大学病院医師)の家族宛12月18日付の手紙
(翻訳)「南京市の九割の地から中国人が居なくなり、掠奪を働く日本兵の集団がうろつくだけになっている。残りの一割の地に恐れおののく二十万人の中国人がひしめいている」
(原英文)
…Nine-tenths of the city are totally deserted by Chinese and contain only roving bands of plundering Japanese. The remaining tenth contains almost two hundred thousand terrified Citizens….
(出典:"Eyewitnesses to Massacre" edited by Zang Kaiyuan p.394 )
(5) 「ヴォートリン日記」12月21日の条
(翻訳)「南京に住んだ事のある者なら、街なかが今どうなっているか、想像もできないだろう。 見るも無残なものだ。バスや自動車が腹を見せて道端に転がっている。 顔が既に黒くなった死体があちこちに転がり、脱ぎ捨てられた軍服がそこいらじゅうに散乱している。家々や商店は燃やされていないまでも掠奪か破壊の憂き目にあっている。 安全区の街路は混雑しているが、安全区の外で日本兵以外の人影を見ることは滅多にない。」
(原英文)
“Those of you who have lived in Nanking can never imagine how the streets look ? the saddest sight I ever hope to see.
Buses and cars upset in street, dead bodies here and there, with faces already black, discarded soldiers’ clothing everywhere,
every house and shop looted and smashed if not burned.
In the Safety Zone the streets are crowded - outside you seldom see anyone but Japanese.”
(出典:"Terror in Minnie Vautrin's Nanjing" by Minnie Vautrin p.89)
(6) ティンパーリ著「戦争とは何か」
(翻訳)「ここに記録した事例は南京安全区を対象にしたものに限られていることに注意が必要である。安全区の外は、1月末まで事実上の無人地帯であった。」
(原英文)
…It is to be noted that the incidents thus noted cover only the Nanking Safety Zone, and that the rest of Nanking was practically deserted until the end of January….
(出典:”What War Means” by H.J. Timperley, Victor Gollancz Ltd. 1938, p.143)
上述の記録は下記の日本側記録とも符合している。
(a)歩二〇の掃蕩
「城内掃蕩では、難民区以外の城内には殆ど住民を見ず、婦女子は煉瓦壁のある建物金陵女子大学か?に収容され、難民区には多数の中国人が集合していたが、入城当初から立入禁止区域として厳重に警戒されていた」
(南京戦史本文 p.167)
(b)歩三八の戦闘詳報12号(12月14日)
「南京城内には避難民相当多数有りしたるも之等(これら)は一地区に集合避難しありて掃蕩地区内には住民殆ど無し」
(南京戦史資料集I p.590)
「南京大虐殺」は安全区の中でしか起こり得なかった
上述のように、安全区の外は「1月末まで無人地帯」(ティンパーリ「戦争とは何か」)であったので、 「南京大虐殺」は安全区の中でしか起こり得なかった。 そして、安全区内は、上述の講談社「南京の真実」の巻頭写真が示すように 1月初旬の時点で殷賑を極めていた。 このような状況下で東京裁判判決が言う「南京大虐殺」は有り得ない。 また、「国際委員会」の宣教師たちによる「安全区における日本軍の不法行為」の 事例を集めた「南京安全区档案」によっても、散発的な殺人・強姦事件の発生事例は記載されていても、 何千何万という殺人・強姦事件の発生事例は記載されていない。
そもそも「南京大虐殺」が戦時プロパガンダのウソ宣伝である所以だ。
撮影日:12月15日
撮影者:佐藤振寿 同氏の手記より:中山路と中山北路の西側の区画で城内に残留した南京市民 |
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